幕間のメモ帳

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2010年 03月 15日

二つの泉鏡花、終了

観劇というより関った作品ですが、

3月8日(月)日本演出者協会主催 近代戯曲研修セミナー・リーディング1『山吹』
作:泉鏡花、演出:篠本賢一、出演:佐々木梅治、早野ゆかり、伊藤克、千賀ゆう子、小林拓生、左藤慶 於:劇「小劇場」 
3月9日(火)日本演出者協会主催 近代戯曲研修セミナー・リーディング2『湯島の境内』
作:泉鏡花、演出:青井陽治、出演:北川能功、樋口武彦、谷口明大 於:劇「小劇場」

総合アドバイザー:中村哮夫、総合プロデュ―サー:佐々木治己、演出助手:黒川逸朗(山吹)、野溝さやか、ゲスト:田中励儀 
 

上の二つは、泉鏡花の二つの作品を角度の違うアプローチで取り組み、とても収穫のある試みだったと思う。

私の担当した『山吹』は、とにかく言葉を立体的に立ち上げる事、文体との格闘に作業の大半が費やされ、七五調など日本語の律文の基本的な問題を確認した。そしてまた、三人の主要人物、洋画家・島津正、元料理屋の娘で現在は子爵婦人・縫子、人形遣い・辺栗藤次、この三人の異なった立場を明らかにしながら、そこにどういったドラマが内包しているのか、執筆時の時代性から、泉鏡花という作家論から、戯曲を解き明かしていった。中村先生の、三人の登場人物の特徴に、西洋文化、江戸文化、古代文化の三つの流れが散見できるという指摘は、この作品を読み解く上でも見逃せない一面だった。

一方、青井陽治さんの担当する『湯島の境内』では、様式を持った言語に対して、シェイクスピア劇でも扱うような手法で、意識の流れの分析、それに伴う、呼吸(ブレス)位置の確認、テンションのコントロールなどを行っていた。また、お蔦と主税を男優が演じているのだが、新派に寄らない方法を取る事で、この作品に新たな光を投げかけようという試みだったように見受けられた。

今回の『山吹』上演を通じて演出をしながら、いつかの発見があった。
洋画家・島津正の役割について。この役は、ややもすると最後の台詞「仕事がある」というところで、お客の失笑を買うこともあるらしい。魔界に入っていく二人を見送りながら、吐かれるこの台詞が、妙に洋画家の軟弱な一面をかもし出しているような演じ方になってしまうのだ。この作品に詳しいある歌舞伎役者もこの洋画家について、縫子という女の心からの求めを断った薄情な男として、なじっていた。

しかし、私にはそうは思えないところがあった。

この「仕事がある」は、魔界への誘惑から逃れるというよりは、彼らの赤裸々な告白を聞き終え、現世に留まる洋画家が、彼らの証言を後世に伝える、その仕事がある、と捉えるべきであろうと考えた。それは、この洋画家が能のワキにあたると解釈したからだ。縫子を中心にした視点では、彼の取る行動は、優柔不断で恋愛に臆病な俗人と映るだろう。

しかし、あの大正という時代の中で、江戸文化が霞みのように彼方に消えつつあり、世は火薬の臭いが溢れてきたころ、弱者は排除され、強者礼賛になっていく時代に、魔界にその存在すべき居を移していく縫子と人形遣いの後姿を見ながら、「仕事がある」というのは、実践者のかれらを後押しする記録者となろう芸術家の、力強い決意表明に聞こえるのだ。

泉鏡花の作品が、能の構造を持っているという考察はすでにあるが、私もそこに着目すべきだと考えている。序破急のドラマツルギー、シテ・ワキ・アイ・地謡・囃子方・後見などに通じる役割があること、台詞の構造が、能の詞章における構造と類似している事など、様々な問題がある。今後、泉鏡花作品に取り組みながら、この点においては、さらに検証を重ね、鏡花の魅力を掘り下げていきたい。

またこの戯曲を初演した中村先生の指摘にもあったが、『山吹』は朗読において、その魅力を表現できる作品ではないかということ。確かに、序にある詩、ト書きなど、鏡花ならではの文体が、通常の上演では、表現されないが、朗読であればそこも表現することができる。また、グロテスクなイメージを見せることなく観客の想像にゆだねるには、朗読という形式が都合がいいかもしれない。

期間は三週間、回数にして八回の稽古だったが、毎回活発な意見交換、そして、鏡花の文体に対するハードルの高い作業が繰り返され、演出者としても大変収穫のある作品になったと思う。出演者、ならびに、稽古場に通ってくれた関係者の力の結集が大きい。感謝したい。

言葉は尽きぬが、夢覚めやらぬまま、次の作業に取り掛からねば。
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by yugikukan | 2010-03-15 00:00 | 日記


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