幕間のメモ帳

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2011年 06月 08日

一山乗り越えた稽古場

ラストシーンまでのデッサンが一応できた。

かなり立体的な展開になりそうだ。

一応演劇とは銘打っているが、はたしてこれはいったいどんな世界観なのだろう。リーディング、合唱、コンテンポラリーダンス? 

対話のある演劇的なスタイルをとっている瞬間もある。
なかなかジャンル分けのしずらい作品かもしれない。

出演しているのは役者と音楽家、台本は詩、そこでついた名が「詩×劇」である。
皆さんにぜひ公演を観ていただきたいと思う。


昨日、叔父さんの葬儀に行く。
(この頃、こういった話題が多いですね。)

震災で多くの方が亡くなった。それは傷ましいこと。
しかし、その間に二度も関わりの濃い方が亡くなった。
でもそれは震災とは関係ない。

人の一生を思う。

死はいつやってくるか、誰にも分からない、突然だ。

人は、いままでそこにいた人がいなくなるという喪失感に耐えられない。

しかし、今まで関わりのなかった方々の死は、ややもすると数字という記号での理解に留まってしまう自分がそこにいたりする。

他者の立場に立って、感情を共有すること、これには、ある種の経験が必要だ。
同種の経験をしているから自分はあの時こうだった、だからあの人もといった想像だ。

しかし全く経験のない未知の状況を共有することはできるのか。

これにはトレーニングが必要だ。

そのトレーニング、これが演技の勉強でもある。

他者の立場になり替わること、これは他者を演じること、演技に通ずる。


では、どうやって俳優は自分の体験していないことをあたかも体験したかのように演じることができるのか。

自分の中にある似たような体験を探し出し、その体験を想像力を使ってアレンジし、あたかも体験した可能な自己暗示にかけていく。

では、体験的にとらえることができない、言葉に出会った時にどうするか。

それを俳優が実感する手掛かりは何か。

それは、からだである。そして呼吸である。

特にからだの苦痛は、実感を導くのに有効だ。

苦痛という言葉に抵抗があれば、負荷と言い直してもいいかもしれない。


たとえば能のすり足である。

能役者が揚幕から橋掛かりを移動するとき、そこには、時間空間を超越したドラマがある。

人の一生を暗示することもあるし、はるかかなた海を越えた大陸への道のりでもある。


そういったドラマ性を生み出すすり足は、足の裏を床に擦り付けることによって生み出される。

負荷だ。


さて今回の「詩×劇」。

我々にとって疑似体験可能なこともあれば、そうでないところもある。

特に挿入された旧作はなかなか手ごわい言葉である。

しかし、そこにこそ現代劇としての可能性があり、俳優の身体性を強烈に打ち出した新たなドラマがあるのではないか、と模索してきた。

「詩の礫」と旧作の構成は、多様になっている現代劇に新たな可能性を提示できるのではないかと考えている。
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by yugikukan | 2011-06-08 23:00 | 日記


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