幕間のメモ帳

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2011年 06月 12日

詩×劇について思う

土曜日の稽古は、欠席者が多かったため、礫に挿入させる旧作の稽古に力を入れた。

旧作は四~五本使う予定(一本は入れるかどうか考慮中)。

言葉を自分の生理・感情だけで語らない、文体を生かしながらどうやって自分の感覚とすり合わせていけるか、ちょっとややこしい話だが、ここが問題だ。

普通の対話形式の演劇では、自分らしさというもの、これが個性と考えられていることが多く、これを軸にして演技を作っていく俳優が多い。

どうやって役を自分に近づけていくか、といった作業だ。映像の俳優はこれが多い。

しかし、役はあくまでも他者であり、自分ではない。

しかも、演じるのは自分。つまり、役作りとは、役という他者と自分との距離を自覚しながら、そのなかで、何かを見せていくことと考えられる。

たとえば能。

能面は役である。それをつける能役者が、役者。

小さな能面からはみ出した演者の輪郭はややもすると、いやほとんどの場合、その役のイメージとはかけ離れた印象を暴露する。

絶世の美女、小野小町の面にはみ出す、年老いた男性の輪郭。

これはどう見ても違和感を感じてしまう。

しかし能はそこを逆手に取った。

人間の想像力は、そこはないものを、見えないものを補完しようとする。

そこにはないという現象が、絶望的であればあるほど、想像力というものは逞しく、働き出す。

つまり、能役者があまりにも演じる役とかけ離れていたほうが、観客は想像力をより強く働かせるというわけだ。

詩×劇は、文体を自分の外側のものとしてとらえ、そこに書かれているリズム、感覚的世界、にまず身をゆだねることができるかどうかが、問題だ。

文体というものを身体に移す回路のない俳優は、いたずらに感情移入し、文体に負けてしまう。

しかし、文体との共存がはかれると、稽古場でも万人を説得するほどの輝かしい表現にたどり着くことができる。

今回もテキストと自らの身体との間で俳優がもがきながら、空間を生み出そうとしている。

期待している。


稽古後、八月に上演の「継志ー板橋で戦争を語り継ぐ」の打合せ。
こちらは来週上演台本第一稿完成予定。

企画が震災を挟んだため、なかなか難航したがようやく光りが見えてきた。
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by yugikukan | 2011-06-12 12:18 | 日記


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