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幕間のメモ帳

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2011年 06月 18日

和合さんの詩についてちょっと

【今週の観劇作品】

6月14日(火)ストアハウスカンパニー公演『縄―ROPE-』作・演出:木村真悟 於:上野ストアハウス 

6月16日(木)東演パラータ自主企画公演『花いちもんめ』作:宮本研、演出:手塚敏夫、出演:尾崎節子、於:東演パラータ
 


和合さんの詩に数字の「2」を感じることがある。

演出をしていて、どうやって動きをつけていくか考えるときに、「2」というものを手掛かりにすると、答えが見つかることが多いのだ。


今回の公演でも、「詩の礫」の間に挿入した、横尾佳代子さんと早野ゆかりさんが演じる「OCEAN」という詩は、「2」という数字が、如何に和合さんの詩に親和性を持っているかを顕著に表している。


そもそも「和合」という名前、この言葉の意味するところは、「男女の交わり」、「親交をもつこと」などである。さらに「亮一」、「りょういち」という音には、「りょう・いち」、つまり、「1+1」が暗示されているかもしれない。


2006年の「詩×劇」公演で初期の作品「熱帯魚」を振付けた。

「叫ぶように怒鳴るように何百も爽やかな風が吹いてきた
 叫ぶように怒鳴るように何百も爽やかな風が吹いてきた」

この印象的なフレーズの2度の繰り返しから始まる詩は、次に

「派手な色合いの何億もの波打ち際が飛び込む
 窓のない家で 仲良く遊ぶ二人の子供」

さらに

「壁には熱帯魚の明るい腹が光り
 台所の何億もの丸椅子には激しい入道雲が倒れこみ
 二本の水平線にいつも脅えているかのように
 何億本もの紐を結ばないまま玄関の靴は崩壊する」

さらに

「木目を乱したまま少しも輝かずに二人の背骨に倒れてゆくそれぞれの廊下や
 波が近づくたびに熱く震えている何億ものそれぞれの敷居や
 かつて確かに窓があったそれぞれの壁に
 何億もの海は倒れこむ」

さらに

「二人の誕生の日に
 窓は消滅しはっきりと残されたのは
 二枚のピンナップが貼られた壁」

その後、ショートフレーズの繰り返しの中で

「二個の画鋲」「二杯の野菜のスウプ」「熟れた二つの桃の種」「二つの椅子」「二つの夢」「二匹の鳩」・・・・



この「2」の繰り返しは、この「熱帯魚」において顕著だが、長編千行詩「入道雲」にも「2」は繰り返し綴られている。

だが、ここで繰り返されるのは「2」は「1/2」の「2」

たとえば、

「この宇宙の分母と分子 どちらが僕なのか」

「フライフィッシングに夢中のきみ 頭の半分がここに沈む」

「きみは今も頭が半分の子供」

「僕の窓は半分だけ消えてしまった」

「きみは、やがて、あの道の向こうのどちらかの、二軒めの家の、どちらかで暮らすことを夢想する」


「2」「1/2」、さらに和合さんの詩には「0」つまり「無人」、というフレーズもよくあらわれる。


「詩の礫」でも被災した故郷の風景を、何度も「無人」という言葉を使って描いているが、もともと和合さんの詩行には「無人」という言葉が散見されていた。


初期の代表作「COME」では

「午後の夜明けの柔らかなドライブ、無人は進むの、濡れたオウムの渇いた喉ッ!」

「きみの無人の妹がワラビを茹で始めるの」

「濡れたオウムが、叫ぶ無人なの、」

「無人は鯉の解剖をし始める頃だな。」

「口紅の川 濡れながら黒く移動する 無人の夜明け」

「紙の雨、徹底的に、無人で、あり続ける、紙の雨ッ」

などが見受けられる。


これらの数字が意味することとは何であろう。

先に触れた長編千行詩「入道雲」が「AFTER」「BIRTHDAY」とタイトルを変えて発表されていることもヒントになる。

「誕生日(1968年8月18日)」「死後の世界」「半分だけの僕」「冥王星に住む君」・・・
和合さんの世界を形作っている世界観がそれらの言葉を生み出している。

もうここではこれ以上の説明は控えることにしておく。


私は幼い頃、兄弟のように遊んでいた従兄がいた。
彼は小学校を卒業することなく、突然逝ってしまった。

小児ぜんそうだったと思う。

彼の葬儀の風景はいまだに鮮烈に覚えている。

だが、不思議にというか当然かもしれないが、そのとき僕には悲しいという感情はなかった。
悲しいという感情にはいたらない、何かもっと透明感のある印象、・・・

と同時にそれからもあまり悲しくなかったのは、僕の心の中にはいつも彼がいて、彼と心の中で対話することができたからかもしれない。子供にはそういった能力が備わっている。

だから死の世界は、子供の僕にとって、親に内緒で遊びに行った護国寺の墓地、その隣りの豊島御陵などと同じような近くて遠い場所だった。

子供にとって「死」はまだ生活感のない観念に過ぎない。

和合さんの描く世界は、死の世界に隣接している。
私が和合さんの詩に惹かれていたのは、鮮烈な詩行の奥にあるそういった純粋な世界観だったかもしれない。


そして現在、震災後に書き始めた「詩の礫」「詩ノ黙礼」である。

これらで和合さんは、現世を共に生きる者へ強烈なメッセージを発している。

かつての彼岸へのはしごをはずし、和合さんは地上に降りてきた。

翼を捨てて地上で声を発している和合さん。

「詩の礫」を読んでショックだったのは、和合さんの言葉が天上のそれではなく、地上のそれであったこと、そして、その言葉に感動したのだ。


今、私の中に二人の和合さんがいる。今までの和合さんと現在の和合さん。
この二人の和合さんの言葉に私は耳を傾けながら稽古場に通っている。

by yugikukan | 2011-06-18 11:34 | 日記


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