幕間のメモ帳

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2011年 06月 22日

詩×劇について もう一度

私は、言葉の劇にこだわって最近の演劇を展開している。

「言葉の劇」

俳優の体が日常的を超えるような言葉。

俳優の情念が沸きあがってくるような言葉。

俳優のDNAに訴えかけるような古えの言葉。

そういった言葉を求め、それらを手がかりに劇を作る。

泉鏡花がそうだった。私は遊戯空間以外のものも含めてここ数年、「草迷宮」「夜叉ヶ池」「天守物語」「山吹」「眉かくしの霊」を演出した。泉鏡花の言葉は非常に感覚的で、その縦横無尽な展開に演じ手の感覚が研ぎ澄まされていく。あたかも棘のある綱で、綱渡りをするようなしびれた状況に追い込まれていく。綱渡りをしているときに流れている音楽は、懐かしいメロディだ。鏡花の言葉は、撥ねつけておきながら、そのあとに微笑みかける女のように、なかなかこちらのペースにさせてくれない。

昨年は、中津川で浄瑠璃「絵本太功記」を演出し、恵那文楽とのコラボレーションを果たした。
(今年は仮名手本忠臣蔵を通しで上演予定)
これもなかなかの手ごたえだった。歌舞伎台本のように台詞とト書きが分割されていない、語りものの文体は、俳優の呼吸を強引に揺さぶり、俳優は、呼吸の浅さ、情念の貧弱さを思い知れなければならない。

「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」の三遊亭円朝は、明治時代、速記に記録され、それが言文一致体の基礎になったというのだから、今日の口語体を生み出したといっていいのだが、そこには、失われた江戸情緒があり、アスファルトに覆われた道路を剥がして、かつてここに土があったのだということを確認するような作業であった。

詩×劇における和合亮一作品もそれら同様、俳優の感覚を研ぎ澄まし、体の奥底にある情念をほとばしらさせ、ここではない異空間に連れ去ってしまう。

なぜ、そのような言葉を求めて劇を作っていたのだろう。

ある方が言っていた。最近の俳優は、体が痩せている。
それは、スリムでありプロポーションがいいというわけでは、もちろんない。

舞台という場を支えるだけの体がない、ということであり、そうであっても舞台に立つ俳優が多いということだ。

俳優の体が声が呼吸が貧弱な劇は、日常生活との境界線をあいまいにしていく。

自分自身の作ってきていた劇も含めてそんな演劇にカツを入れる劇。

それを言葉というものに軸をおいて作ってきたのだ。



8月18日は和合さんにとって「BIRTHDAY」でありながら「AFTER」であった。だから、これまでの和合さんの言葉の多くには、鎮魂の祈りが見え隠れしていた。

そして、2011年の3月11日は、和合さんの「REBORN DAY」となった。
数え切れない数の魂に向けられた和合さんの祈りは、かつてないほど深くなった。

そしてそこに怒りという感情が加えられ、和合さんの言葉は激しくなった。



私たち演劇人が舞台で言葉を発するとき、その言葉が今を語っている言葉だったら、あるいは、その言葉が血を流しながら発せられた言葉だったら、それを口にする私たちの口からも同じように、血が流れるのだろうか。彼らの痛みを受難のように引き受けることが出来るのか。

詩×劇も3月11日を境に、新たな段階に入っていかなければならないだろう。
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by yugikukan | 2011-06-22 23:58 | 日記


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