人気ブログランキング |

幕間のメモ帳

yugikukan.exblog.jp
ブログトップ
2005年 10月 01日

子方が描く能・狂言 第5回「もし子方がいなければ・・・」

10月1日(土)、横浜能楽堂企画公演 子方が描く能・狂言 第5回「もし子方がいなければ・・・」観る。

今回は、能「隅田川」が取り上げられる。

「隅田川」は、世阿弥の息子十郎元雅の作だが、稽古場で世阿弥に、「子方はいない方がよい」と言われたのに対して「子方がいなければできません」と反論した話は有名。何を見せ、何を見せないのかといった二元論ではなく、観世榮夫師の指摘によれば、世阿弥の複式夢幻能に出てくる亡霊は、いずれも主体であり、自ら何かを伝えにやってくる。だが、隅田川の亡霊は、あくまでも母親の妄想であり、(ワキにも見えるのだが)主体ではない、ゆえに省略可能なのではないかと。演能前の鼎談で、子方の有無の可能性について確認があった後、子方なしの「隅田川」が始まる。

元雅の、ワキや観客に見える子方(一年前に死んだ息子)の存在は、共同幻想としての亡霊。だが、世阿弥の考えた、子方なしの物狂いの母の姿には、死別した者には二度と会うことができないという厳しい死生観がたちあらわれ、深い感動を覚えた。子方のかもし出す哀れさに涙する元雅の能とは違った、厳しくそして深い、カタルシスなどでは解消されない生き残ったものが生き続けていく重さを突きつけられたような気がした。ワキの「われらもさように聞きて候」の件、自分には聞こえていないが狂女に対して同情を寄せているといった趣の表現に転換されていたようで興味深かった。シテ観世榮夫 ワキ宝生閑 ワキツレ則久英志 他

d0003835_23294992.jpg


# by yugikukan | 2005-10-01 23:48 | 古典芸能
2005年 09月 18日

東京シェイクスピアカンパニー公演「ペリクリーズ」

9月18日(日)、シアターカイにて東京シェイクスピアカンパニー公演「ペリクリーズ」演出:江戸馨、観る。

このカンパニーのシェイクスピア公演は春に朗読のみのものを観て好感を持っていたが、今回の芝居には疑問符がついた。

ロマンス劇に分類されるこの「ペリクリーズ」は、他のロマンス劇(「シンベリン」「冬物語」)同様、家族の別離と再会、時間のおこす奇跡などが描かれ、さらに、語り手が登場し、全体を寓話化している。

さて、今回の公演で気になったのはどこまでを観客の想像に委ねるのかの演出のバランス感覚だ。寓話が人生の真実を描いていると感じられるか、ご都合主義の安易な話に見えるかの大きな分かれ目。風俗、時代も現代社会とかけ離れているこの物語に説得力を持たせるためにあまり多くを見せてはいけないと思う。もともと多くの部分が韻文で書かれているシェイクスピア劇は、近代劇的な会話劇と言うより語り物だと思う。言葉を聞かせ、観客に自由に想像させる。その立脚点が、残念ながら今回の公演は私の好みではなかった。特にあの舞台装置は、必要だったかどうか。

つかさまり演じるタイーザと淫売宿のおかみが楽しかった。

d0003835_838145.jpg


# by yugikukan | 2005-09-18 23:59
2005年 09月 04日

東京芸術座公演「地球の上に朝が来る」

3日(土)、紀伊国屋サザンシアターで、東京芸術座公演「地球の上に朝が来る」観る。今年は終戦後60年ということで各所でこの手の企画が目白押しだ。しかし、要は演劇を見せているのかどうかということ。芸術的な自由があるのかどうか。そこが問題だと思う。ラストで、小泉純一郎の「郵政民営化」のパロディ・・・。せっかく観客の心の中で、二時間以上にわたり育まれた物語の登場人物「あきれたボーイズ」の面々が、矮小化してしまった。

d0003835_1442412.jpg


# by yugikukan | 2005-09-04 01:45 | 演劇 
2005年 09月 03日

響きの会公演「袴能の夕べ」

2日(金)、響きの会公演「袴能の夕べ」観る。昔は夏場の風物詩だったという袴能だが、最近では珍しい試みとなっている。シテ方は、装束と面を付けずに、素顔を見せ、羽織袴で演ずる。能の演技は、最小限の行為で最大限のイメージを喚起させようとするものだとすれば、この袴能という試みは、今ここにないものを、まさにわれわれの心の中に再構築させた。砧のシテ方観世榮夫師の素の表情は、面を凌駕する深い感情をたたえていた。

d0003835_11322621.jpg


# by yugikukan | 2005-09-03 11:32 | 古典芸能
2005年 08月 15日

劇団東演公演 ピアノソナタ「月光」による朗読劇「月光の夏」

時報が鳴り、8月15日正午、劇団東演公演 ピアノソナタ「月光」による朗読劇「月光の夏」が開幕する。朗読劇ならではのシンプルな構成の中に四人の俳優の、そして、演奏者の「これを伝えねば」という熱い想いが観客席に、最後まで高い集中力を持続させながら届けられる。若くして逝った者の無念さと、生き残った者の葛藤が、戦後60年という節目の年に私の心に杭を打つ。ラストは月光ソナタ全曲が演奏されるが、第一楽章は、さながら、生き残った者が死者に捧げる鎮魂曲、第二楽章は、死者から生き残った者たちへの励まし、そして第三楽章は、現在の社会に対する死者からの警告、そんなことをふと夢想した。
d0003835_21513369.jpg


# by yugikukan | 2005-08-15 21:56 | 演劇 
2005年 08月 13日

シアターXプロデュース公演「四谷怪談」

12日(金)、シアターXプロデュース公演「四谷怪談」観る。劇場に入って舞台装置に圧倒される。地下鉄のプラットホームと河原をオーバーラップさせた流線型が美しい。期待は高まる。現代の風景の中に南北のテキストを重ねる。それを観ているホームレス風の女(吉行和子氏)の妄想ともとれる設定。観客は現代の風景の中に、物語を自らのイマジネーションを使って再構築しなければならない。但し、今回の演出では、テキストが四谷怪談である必然性があまり感じられなかった。
d0003835_0354626.jpg


# by yugikukan | 2005-08-13 00:53 | 演劇 
2005年 08月 03日

GooD FellowS 双の会「フロストハート」

8月2日(火)、銀座みゆき館劇場で、GooD FellowS 双の会「フロストハート」観る。臓器移植をモチーフにしたグロテスクなメルヘン、しかも人情噺・・・。ハイテンションの洪水。通路、出入口、楽屋への入口などを縦横無尽に使う演出にこの劇場に対する熟練を感じた。

d0003835_926162.jpg


# by yugikukan | 2005-08-03 09:39 | 演劇 
2005年 06月 29日

ベルリナー・アンサンブル公演「アルトゥロ・ウイの興隆」

28日(火)、ベルリナー・アンサンブル「アルトゥロ・ウイの興隆」新国立劇場、観る。

ハイナー・ミュラーの最後の演出作品ということもあって、大いに期待したが、やや大味な印象。演出が会場のサイズにあっていないような気がした。ミュラー本人が存命だったら、果たしてこのままの状態で、上演していたのかどうか疑問。

ウイ役のマルティン・ヴトケ氏の演技が最高だった。アニマル、パントマイム、ヌード、そしてあの独特の声。あらゆる表現で、ウイを立体化する。老俳優の演技指導でヒトラーにコーディネイトされていくシーンが、グロテスクなユーモアに満ちて楽しかった。老俳優のセリフ「シェイクスピアがいなかったら、今頃ブロードウェイで活躍していたはず」に苦笑。

ロビーでは、開演前と終演後にヒトラーもどきが演説をしている。ウイは、ヒトラーは、私たちの隣にいるのだ。

d0003835_23544869.jpg


# by yugikukan | 2005-06-29 00:11 | 演劇 
2005年 06月 19日

演劇企画集団THE・ガジラ「死の棘」

17日(金)、シアタートラムにて、演劇企画集団THE・ガジラ「死の棘」、観る。

舞台は水に囲まれた円形の舞台、奥から橋掛かりが延びて本舞台に通じている。この円形の舞台で、トシオとミホの終わることのない壮絶な闘いが続く。それを三人の敏雄(海軍中尉、学生服、背広)が、ある時は、敏雄の分身として、またある時は、敏雄とミホの周囲の人間に扮しながら、見つめている。(この三人は2時間20分の上演中引込みはない)鐘下辰男氏の演出は、永遠に続くかのような男と女の修羅場を通じて、出会うことのできぬ現代人の焦燥感を描き出したのではないだろうか。

体と体がぶつかり合い、はげしい言葉でミホが罵り、その責めにじっと耐え続けるトシオ。それは、トシオの浮気の贖罪というよりも、むしろ、出会いたくとも出会うことのできぬ、精神の交わりを欠いた男と女二人の、崇高な愛の儀式といった様相を帯びている。

三人の敏雄は、作者・主人公の時間を解体して、空間に客観性を与えた。ちょうど能のワキのような役割。

そして、この舞台では、水が重要な仕掛けを果たす。水は、奄美を囲む海、闘いに疲れた身体の渇きを癒すこともあるが、男と女の責めの道具にもなり、また、闘いを中断させるためにワキ三人から修羅のリングに投げ込まれるタオルにもなる。主演の二人は、何度も水を浴び、びしょびしょになるが、板の舞台を滑りながら狂う様は、近松の「女殺し油地獄」を連想した。

近代文学屈指の情念を、現代劇に昇華させた充実の舞台。高橋惠子氏、松本きょうじ氏、高田恵篤氏、石橋祐氏、小嶋尚樹氏の出演。

d0003835_9233759.jpg


# by yugikukan | 2005-06-19 09:39 | 演劇 
2005年 06月 14日

劇団ジャブジャブサーキット公演「成層圏まで徒歩6分」

13日(月)、劇団ジャブジャブサーキット公演「成層圏まで徒歩6分」、観る。

はせひろいち作・演出。

天文台長が亡くなった天文台の隣の、成層軒というレストラン。ドラマは、もうここにはいない天文台長の生前のなぞ掛けをめぐって、天文台に住む学者、レストランにたむろする人々、天文台にやって来た若い女(実は故人の娘)などの、脱力感あふれるスリリングな会話で展開していく。

人はみな誤解しながら生きている。
すれ違う会話が楽しかったが、同時に、ぼんやりと人間の存在の孤独が感じられた。

天文台地下の開かずの扉が開き、そこで見つかったCDに天文台長のメッセージが。録音された天文台長の声は、永遠の宇宙の彼方から、孤独を生きるわれわれに、時間を越えて優しく語り掛けてきた。人類が、どこかにいるかもしれない知的生命体に向けて宇宙に発したメッセージボックスにこめた夢、そして、例えば星座の命名権をめぐる愚かな営みの嘆かわしさ。作者の想いは、決して力強く語られることはない。しかし、確実に心に届くものだった。

・・・ただ、楽日を前に、所々、多少疲れがみえたかな。

d0003835_9195460.jpg


# by yugikukan | 2005-06-14 00:09 | 演劇 
2005年 06月 08日

流山児★事務所「戦場のピクニック・コンダクタ」

7日、流山児★事務所「戦場のピクニック・コンダクタ」観る。坂手洋二脚本、流山児祥演出。アラバールの「戦場のピクニック」からわずかにセリフを引用するが、ほぼオリジナル作品といった趣。一年に一度の「静かの日」と「おと泥棒」をめぐる前半は、ピクニックコンダクタ(若松武氏)の内面のドラマ。青春を、若き感受性を、そして、妹を殺し、若き音楽教師は音のない世界の住人となる。後半、その男は、戦場で指揮官となって世界の殺戮者となった。メルヘンな世界の中にも複式夢幻能を連想させる構成。音楽、ダンスも絡み多層な空間を構築していた。
d0003835_1047555.jpg


# by yugikukan | 2005-06-08 10:47
2005年 05月 29日

新国立劇場「その河をこえて、五月」

27日(金)新国立劇場「その河をこえて、五月」観る。韓国に語学留学している日本人が河川敷で桜のお花見をしようとしている。そこに集う日韓両国の人々のやりとりを通じて、過去の、そして現在の問題が浮かび上がってくる。日本人の登場人物は、介護用品のサラリーマン、不登校生徒、在日韓国人など劇中の問題を浮かび上がらせんためのキャラクター設定だったのに対し、韓国人の設定は、次男のカナダ移民問題にゆれる一家族を登場させた。そこは作家の平田オリザ氏と金明和氏との違いでもあるが、両国の民族性の違いが伺え興味深かった。個と個の結びつきが如何に危うくなっているかを描いた日本人。家族が、血のつながりが、如何に分かち難いものであるかを描いた韓国人。全体的にドラマの進行は平田氏の方法で進められた印象があるが、水と油ほど違う両国の人々のすれ違いと結びつきがうまく現れていたと思う。三田和代氏と白星姫氏が歌う「浜辺の歌」に感動した。
d0003835_2015393.jpg


# by yugikukan | 2005-05-29 19:55 | 演劇 
2005年 05月 25日

演劇倶楽部『座』公演 詠み芝居「鶴八鶴次郎」

24日、演劇倶楽部『座』公演 詠み芝居「鶴八鶴次郎」を観る。原作、川口松太郎 構成・演出、壌晴彦。新内語りの鶴次郎は、師匠の娘の鶴八と、舞台の上では当代一の名コンビ。喧嘩ばかりしているが、二人は秘めた恋心を抱いている。やっと一緒になれると思った矢先、意地を張り合い別れてしまう。嫁ぐ鶴八、落ちぶれていく鶴次郎。新派でも映画でもたびたび描かれている芸道ものの名作。それを語り、芝居、舞踊、そして、鶴賀若狭掾(人間国宝)の新内語りで見せる。充実の舞台。壌晴彦、金子あいのコンビも息が合っていた。
d0003835_810437.jpg


# by yugikukan | 2005-05-25 08:07 | 演劇 
2005年 05月 15日

劇団えるむ・劇団民衆(韓国)合同公演「種~祖国に種を蒔く~」

14日、劇団えるむ・劇団民衆(韓国)合同公演「種~祖国に種を蒔く~」を観る。
日本人・韓国人の両親に生まれ、 韓国の農業近代化の為に貢献した禹長春博士の一生を描く。 脚本・演出 金 淳栄。
ソウルの公園に集まった亡霊たちによる劇中劇のスタイルをとる。そのため韓国人の亡霊が、博士の回想の中の韓国人のみならず日本人をも演じるという設定(実際には日本人の役は日本人が演じる)。禹長春博士役は日本人が演じた。ハングルの台詞には日本語の、日本語の台詞にはハングルの字幕が出る。
あの時代(大正の日本から朝鮮戦争後の韓国)の日韓の架け橋となった主人公の人生は、大変な苦労を強いられた。しかし、いつでも人を愛することを忘れない主人公の生きる姿勢には、感銘を覚える。だが、演技を通じて、そのすばらしさはあまり伝わってこなかった。説明的な台詞で主人公の一生をおった印象。ストーリーは、前半、主人公の日本での生活を、後半、韓国での生活を描いているため、せっかくの日韓両国の俳優の、ドラマティックな対面が、あまり描かれていない。正面を向いたモノローグが多い。舞台上は友好ムードが漂うが、それは政治の問題。演劇において、芸術において達成されなければならない本当の対話とは一体なんだろう。
時折挿入される歌にも問題がありそうだ。歌や踊りは、ドラマのテンションが日常的な表現を超えなければならないところまでヒートアップした時、初めて必要になってくるもの。効果的な使われ方をしないと、ドラマのテンションを逆に下げ、空間を弛緩させてしまう。
そうはいっても、このような合同公演は、対話というものを課題にしなければならない演劇というジャンルにおいて、大変有意義な仕事だ。グローバル化の進む現代、ますます増えていくだろう。そういったこれからの作業に課題を示した。
d0003835_1111463.jpg


# by yugikukan | 2005-05-15 09:53 | 演劇 
2005年 05月 12日

「短編集 コレクティッド・ストーリーズ」

10日(火)、博品館劇場で、「短編集 コレクティッド・ストーリーズ 」作:ドナルド・マーグリーズ
 訳・演出:小田島恒志 出演:中村メイコ、成瀬こうきを観る。~成功した女流作家と彼女の指導を受ける平凡な一学生―――。才能の開花によって崩れていく師弟関係。尊敬、嫉妬、羨望、野心、愛情 ――追う者と追われる者。人生の機微を見事に描ききった二人芝居の秀作―。と、チラシに書いてあったが、残念ながらそのようには見えなかった。冒頭、中村メイコ氏演ずるかつての大作家が、若手の駆け出しの学生にとって、大きな手の届かない存在だという関係がうまく築けないまま、ドラマが出発してしまったような気がする。ドラマの前提が確実に成立していないから、それに続くエピソードが曖昧になり、観客は筋を追えない。このようなリアルな会話劇は、関係の築き方がとても重要だとあらためて痛感。観客の視点で考えた場合、部屋にいた作家から見た若き侵入者が興味の対象となるのか、逆に外部から侵入してきた若者が見た作家を興味の対象とするのか、観客を、ストーリーをどちらに誘導したいのか、演出のポイントがよくわからなかった。ふたりの女優は、二時間あまりを力演、演出の整理が行き届けばまだまだおもしろくなるはず。

# by yugikukan | 2005-05-12 01:05 | 演劇